昭和五十六年九月二十二日 朝の御理解
御理解 第二十一節 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というの           じゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし           カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず           火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」 桂先生の奥様は岡山金光の山一つ向こうに沙美という所があります。その沙美の出身のお方です。もう、娘の時から大変体が弱くて、もうそれこそ病み袋といわれるように、体全身さまざまな病気を持っておられた方であった。その為に毎日々大谷、いわゆる金光の町ですね、まで毎日神様にお参りをするのがまあ仕事であった。という程に体のお弱いお方であった。
 二代金光様四神様のまだ御生存中でございますから、四神様のお取次を頂かれた。 ある時に金光様に、ミツ、名前はミツと言われました。金光様私の体はもうどこも良いという所がございません。どこもここも病気でこの体がそれこそ芹の根を洗うたようにすっきりしたおかげを頂かせて下されというて願われた。あの芹の根は、根を洗うときれいにすっきりと致しますね。まあ、そういう意味でしょう。すっきりしたおかげを頂かせて下されと。だから、お互いもね、やっぱりそういう願いを持ってるのじゃあないでしょうか。あの事この事が成就して本当に心にかかる雲もない何か日々が安心して、すっきりした生き方がでけそういうおかげが頂けたなら、もう、この事一つおかげ頂きゃ、私しゃすっきりするけれども、いったような事がありあせんでしょうか、ね。
 皆さんすっきりしたおかげね、そん時四神様がね「信心にもいろいろあってな拝み信心、参り信心というて」とおっしゃたそうです。只、拝む事ばっかりが拝む、参る事ばっかり参るね、「その中でもお参り信心じゃな」とおっしゃった。まあ、一生懸命お参りしてる間にゃ御教えも頂く事がでけ少しづつはわかっていくだろうというのでしょうね。
 私は今日の御理解を頂いて信心なければ世界が闇とおっしゃる。そんならば信心があれば例えば、自分の周辺だけでも明るくしていけれるという信心がどの位あるだろうか、ね。やはり、自分の心に光を感ずるね。又、周囲の者でもね光を感ずる。
 お母さんの信心が熱心にでける、お母さんが居ると家ん中に何とはなしに安心であるというようにね、もうそのお母さんは心に光を頂いておる証拠です。そういう、言うなら心に光を頂いける程の信心が頂ける程しの信心が頂けてはじめてね、我が身は神徳の中にあってもシンなければとおっしゃっておられます。おかげの世界ね御神徳の中にありながら心にはすっきりしないもの、言うなら、不平やら不満不足でい-ぱいである。すっきりしない、ね。すっきりするという事。四神様のお口添でそのミツさんが小倉の初代教会長の奥様になられました。それは々まあ大変な厳しいお方だったそうですね。桂先生というお方は。もう何回もいわば別れようと帰ろうと思われた事があった。或る時などは、とうとう御本部にお出でられて四神様にその事の苦しい内情をお話になった、ね。もう他(ほか)の事ならどんな辛抱でも致しますけれどもこの事だけはもう辛抱がでけませんとまあその、いよいよすっきりしない心の苦しみを訴えられた、ね。「本当に苦しいか」と「もうこんな苦しい事はありません」ね他の事ならどんな辛抱もするけれども、この辛抱だけはでけんとおっしゃった時に四神様がね「出来る辛抱なら誰でもする。そこのそこを神にすがって辛抱するのじゃあ」とおっしゃった。もう辛抱がでけない、そこを神にすがって辛抱するのじゃぁ、さあすぐ帰れ表から出されたら裏から入れ、裏から出されたら表から入れ」とおっしゃったという事です、ね。その病み袋と言われる程しの私共は叔母様とこう申し上げたが叔母様九十何才でしたでしょうか、桂先生は早死になさいましたけれども、奥様はおかげを頂けばね、九十何才までも長生きのおかげを頂いて、それこそ九州中の信奉者から叔母様叔母様とあがめられなさるような、いわば光を頂かれたわけですね。その辛抱がでけんとかすっきりせんとかいうことろをね、そこを神にすがってという信心ね。神徳を受ければ心配ないとも教えておられますが、そういう辛抱をしぬかせて頂く向こうに、私は、御神徳があると思う。その御神徳を受けた時にはじめて我が身は神徳の中に生かされておるその事実がおかげとして実感がでけるのじゃないでしょうか、ね。言うならば、おかげで信心がでけますという事。だから信心というものがどんなに尊いものか、大切なものか、それも勿論真の信心がいわゆる心に光が頂けるような信心がどんなに大切なものかという事を先ずはわからしてもろうてその光を頂く事の為に私共が信心がある。お徳を受けて、徳を受ければどんな場合であっても、心配ないとこう仰せられてありますがね。お徳の世界を私共がまあ、かい間見てまいりました。お徳を受けられた先生方の、例えば、一番身近に感じるのは、三代金光様でしたね。別にどうとおっしゃるわけでもないけれども、あのお姿を拝しておるだけで心がやすまりました。心に光を与えて下さいました、ね。
 そういうものが誰でも受けられるのがお道の信心だといわれるが、私は合楽ではそれをもっとそういえると思う。合楽理念によって皆さんが信心の稽古をなさるならば誰でも御神徳が受けられるという、ね。そこでです、私共が願いというものを持たない者はないですけれどもその願いがね、もちっと高度な本当に自分でもそこに生き甲斐を感じれるような、喜びを感じれるような、勿論神様も喜んで下さるような願いにこう変わっていくという事が信心がだんだん変わっていく事じゃないでしょうか。
 例えば、私、目がこんなに大変うすくなって行きます。ですから、これは目がこんなにうすくなりよるからいっちょ養生してもろうて、手術でもしてもろうて、又は神様どうぞ少し見えるようにして下さいといったような事はさらさら思いません。
 もし、見えんごつなったらどうするじゃろうかという不安もない。そこには、ほらずうっと心ん中にもちっと目が見えたならよかろ、もちっと目が見えたらよかろうとこう思とったらそれだけでもすっきりしないでしょう、ね。
 その事も神様のおかげであり、お徳の中にある事だという事がわかるからです。これがだんだん目がうすくなって見えんようになったら、今まで感じる事の出来なかった御神徳の世界を又、広く見る事がでけるというようなむしろ楽しみすらある感じが致します。そのすっきりしたその心におかげがあるのです、ね。だから、願い事な無い人はありませんけれども、願ってもよいけれども、それがいつも自分の心にずう-っとあるといったような信心では、いつまでたっても光になるお徳になるてげにはなりませんよ。
 ね、そこの事は願うからおかげになりましょうけれどももうそのおかげを頂いた時にゃ、もうすっきりしないものがここにでけとるです。
 もう、この事いっちょおかげ頂きゃなあと思うておったおかげがなら成就してもですよ、もう又、それの向こうにゃすっきりしないあれやこれや不安でたまらんものがあるわけです、ね。だから結局真の信心を目指す事によってですね、その真の信心が身についていく事を有難しとし、喜びとさせて頂くように信心を頂いてね、自分の信心がこんなにお育て頂きよるという事が有難い。
 そこに言うならば、神徳の中にある、神徳の上にあっても氏子にシンがなければ、火はともらんとおっしゃるようにね、私共が真一心、真の信心を頂きたいという一心があれば、必ず火がともるのです。火がともれば明るくなるので。明るくなれば怖いものはなくなってくるのです。真暗い心の中にあるから怖いのです。手探りせんならんようなね暗い所ではやっぱり不安です。自分の心に火がともりますと隅々までわかってまいります。怖さがなくなる、いわゆる不安とかそういうものがなく、いわゆるすっきりした心が頂けるのです。ひょっとすりゃこのまま目が見えなくなるかもしれない。そういう例えば不安がないのです。かえってそこの奥には、今まで感じきれなかった御神徳の世界がまあだあるに違いないという確信が強うなるだけです。ね、 皆さんがすっきりしたおかげを頂く為にはお徳を受けなきゃいけません。皆さんが願っておられるこれがいっちょおかげ頂くなら、すっきりするけれども、そういう、おかげもそりゃ、頂かんならんけれども、それだけにいわば信心がかけられるとするならば、そのすっきりするようなおかげを頂いてです、次には又、心の中にね、すっきりしないものがうまれてまいります。
 なる程、この世は苦の世界だ、だからこの世では仕方がないと諦めるという信心もあります。けども、金光教の場合は諦めじゃなく、そのおかげで次の信心がでけます そのおかげで今まで、かえって見なかった御神徳の世界を広げていく事がでけるという生き生きしたもの、ね。そりこそ、芹の根を洗うたようにすっきりしたおかげを頂かせて下さい。そりあさぞ、よかろうばってんそりだけで幸せになれれるじあないぞと、ね。しっかり参る事じゃあと四神様がおっしゃったという事。しっかり参ったら、なら、教えを頂いて自分の心か少しづつでも開けてくる。いわゆる信心は悟りだと言われる悟りなんです。そこにはじめて神徳の中に生かされておる喜びがわかるようになる。どういう中にあっても神徳の中であるという事がわかる、ね。
 吉野山踏み迷うても花の中という句がありますよね。例えば、どんなに苦しい事があっても、やっぱり花の中なんだとね。いわゆる吉野桜咲いておる桜千本といわれるそこの所を句にしてものでしょうね。
 例えば、道を踏み迷うておってもやはり花の中だと。私共がどんなにすっきりしない問題をもっておってもやっぱり御神徳、御神愛の中なんだと、そこに喜びが感じられるお礼が言えれる信心を頂きたいね。
              どうぞ。